あたま日記

小学生の落書き帳みたいな気持ちです。

部屋の掃除、大事!幸福である

自分のことしか考えられないというのは、
自分1人しか寝られない、狭くて
小さい家に住んでるということ。

他の人のことも考えられるというのは、
他の人も招き入れられる大きい家に住んでる
ということ。

家具を買って、本棚を並べ立て、
あらゆる花を飾っても虚しいなら
そこに人を呼べばいい。
虚しさは招く人がいないことだ。


虚しさは舌なめずりをしながらどんどん
自分の心を蝕んで言い難い不安や焦燥感を
募らせて、しまいには家ごと飲み込む。



〜間〜


別に1人でも十分幸せだという人はいる。


誰か他人と必ずしも一緒にいる必要はない。
( 突き詰めれば幸福である必要も誰も
強要出来ないけど……今回はそういう話じゃない
ので割愛します。)


一人でいる人は自分のことしか考えないのか。
狭くて小さい部屋に閉じこもってるのか。


きっとそうじゃない。

別に一人でいようが複数でいようが、問題は
そこじゃない。幸福である為には、人それぞれ
必要な部屋が充分あるかないかなのだ。


まずは自分の家を建てる。
そこからその人の幸福に必要であれば
他人を招く部屋が増築されていくものだ。


人に使える心があるのは、
思いやりができるのは、
まず自分へと使う心があることが大事だと思う。



〜間〜



何も無い更地には招く人はおろか
部屋もない。

そこに家を建てて、部屋を作って、
人とはじめて触れ合う。


玄関先での会話は、
例えばバイト先、
例えば会社、
例えば郵便配達の対応、
例えば電車の乗り降り、
そういった表層的な社会との関わりだ。


家に招きいれての会話は、
例えば家族や親しい友人や恋人との
自分に深く密接しだす社会との関わりだ。


ここでいう社会との関わりは
自分 対 自分以外 との交わりのようなこと
だと思って欲しい。


その時、そもそも家がなかったら?

家があっても埃だらけで、息もままならない
部屋がひとつあるばかりだったら?


自分に使える心がない時、
そこには虚空との対話しかない。
鏡ですらない。答えのない、
ただの時間が引き伸びた、真っ白のモヤ。


自分のことだけを考えるばかりではならないけど、
自分のことをおろそかにして家を手放しにして、
蜘蛛の巣が張ってしまっていてはいつまで
たっても虚しいだけなんじゃないかなぁと思う。


孤独と虚しさは違う。

時として孤独は必要不可欠でそれこそが幸福で
ある場合もある。虚しさはそうじゃない。

便宜上はね、そういってね、一人ぼっちの
区別をつけているわけです。



〜間〜


この話は幸福でありたい、幸福を求めるを
前提にして人それぞれの「一人」、
確固たる「個」としての存在が幸福でいる
為に必要ではない「悪孤独」(オこどく)が
どこからやって来るかを考えた話でした。


私には部屋がいくつあるんだろうな〜。

部屋がいくつあっても悪孤独が舌なめずりを
して、邪悪で、下世話で、どうしようもない
不安や恐怖を与えて来る時、
自分の部屋がおろそかになっていないか
確認する必要があるな。