あたま日記

小学生の落書き帳みたいな気持ちです。

体とか祈りとか

過去のブログを見てもらうと分かりやすいの
ですが、私はずっと以下のようなことを思って
10年以上生きてきました。

・お花好き!
・水好き!
・光って大好き!
・最後はみんな死ぬ。
・色んな人がいて色々ある。
・許容と認識と理解は違う。
・みんな幸せになってほしい!
・ハッピーエンドだーいすき!


書いてないこともあるけど、大体こんな感じで
今までもいつまでもこれからも生きていくのだと
思う。これはもうどうにも動かない。



特に「許容と認識と理解」の話は、
きっと分からない人は分からないし、
分かったようなことを言う人は分かったような
口ぶりで誰かに話すだろうし、
わかる人はわかるだろうし、
私はそれで良いと思う。


簡単に言うと個人の尊重Lv100みたいな感じなのかな。尊重というか、「そうなんだ」と思うだけだけども。尊重ほど大仰な気持ちでもない。



〜間〜



理解や、認識や、認識が及ばない
ありとあらゆる事すべて、
人の気持ちとか、生活とか、宗教思想諸々、
「あ〜そうなんだな〜」と思うこと。
肯定でも否定でもない「許容」をすること。

それは私の中でとてもとても大事で、
手放せなくて、
むしろ手放したくてもどうにもできなくて、
それすら「許容」して出来上がった
マトリョシカ式の考え方がある。


そうして生まれた異常ハピエン厨!!!!
これも私の中でかなりの分量を占めている。


世界中全ての人は知らないし、正直どうでも
分からないけど、身の回りの人や
自分が愛したもの達や、
関わった全ての人がどんな形であれ幸福でいて
ほしいな〜と思う。


これは決して慣用句ではなく、本当に
「どんな形であれ」本人が幸せならなんだって
良いと思っている。


うまいことパズルが合うように、
関わった人達が互いを傷つけようとも
(できれば傷つけあってほしくないけど)、
最終的に幸福な形であれば良いと思っている。

その幸福の在り方は、
もしかしたらすごく暴力的なことかもしれない。
もしかしたらすごく退廃的なことかもしれない。
もしかしたらとても孤独な話なのかもしれない。

でもそんなことどうでも良いのだ。
相対的な暴力も退廃も孤独も、絶対的な本人の幸福には敵うことないんだと思う。


私が今まで、そして今、愛した全てのもの、
関わったすべてのもの、触れた全てのもの、
絶対的な幸福を掴んだり、絶対的な幸福に囲まれたりしていてほしいな〜。

そしてこれはエゴです。エゴなので、別にそうじゃなくてもいいとすら思う。


そうだと良いな、あったらいいな、という祈り。



〜間〜



私には刺青がある。
ピアスがそこそこ空いている。

多分、大勢の人はここだけ見るとあんまり良くない印象になると思う。
それも分かるし、分かんない所もあるし、
それはそれで良いと思う。


私の肉体改造には意味があって、
意義があって、意思がある。
祈りの延長戦だ。


それはそれで私は良いと思う。
良くないと思う人はそれでいいと思う、
いいね!って言ってくれる人には
ありがと〜と思う。


よそはよそ、うちはうち、あなたはあなた。


花をみて綺麗だと思うのも、
邪魔だと思うのも人の自由。

それを否定するも肯定するも自由だし、
私は皆のことがどうでも良い。
吐き捨てている訳ではなくて、
心から、本当に、どうでも良い。


好きなように生きて、好きなように死んでほしい。


私は今日もぼんやり、
涙が出そうなくらいぼんやり、
祈ったり祈らなかったりしながら過ごした。
今日の花も綺麗だった。
明日の花も綺麗だと良いな〜。


いつか、小花がいっぱいに咲き誇る花束を、
笑ってあげることが出来たら、
真ん中に空けたピアスを外そうと思う。