あたま日記

小学生の落書き帳みたいな気持ちです。

救急車、ご飯、お花

スーパーへの道中、目の前を赤くて眩しい光が
突っ切って、止まった。救急車だった。

交差点で事故が起きていた。
自分から20m先の事故だった。

サイレンは鳴きやんでいて、
救急隊員が慌ただしく降りているのをぼんやり
眺めていた。

自分が渡る方向とは反対の信号で起きた事故、
目の前で今まさに起こっている大きな損失、

ついさっきまでのほほんと人生やんぬるかなと
考えていたところに突然訪れた現実のスピードに
着いていくことが出来なかった。

ただぼんやりと現在進行形でしかない人生、
ということを改めて体感として
実感して体験して
享受して咀嚼して、
嚥下して消化して、
ようやく渡るべき信号を渡った。

全て今しかないということが、
目撃した事故現場と自分の人生への観念の間で、
目の前の出来事と遠い概念的なものとの間で、
確固たる輝き、もしくは影として存在していた。

やんぬるかな、遣る瀬無し、人生。
事故にあうあわないも。
反対側の信号に私がいるifだってある。
遣る瀬無し、ああ、人生。



〜間〜

閑話休題
ご飯を作ることは、愛情であるべきだ。
(土井先生も愛だよって言ってました)

美味しくなってね、いっぱい食べてね、
元気になってね、良い時間になってね、
様々な思いで野菜をきる。肉をたつ。
食べられてくれてありがとうございます。

自分への思いやりや、作る相手への思いやり。
そう考えながら作る時、心から優しくなれる。

本当は優しくなんかないんです、とか
本当は本当に意地悪なんです、とか
何一つ思わずに、
やさしくやさしく。
やさしく煮込んで、やさしく焼いて、
やさしく盛り付けて、やさしく食べる。

咀嚼、嚥下、咀嚼。
愛が血と成り肉と成り……と言った感じ。

今日も明日も美味しく過ごしたい。

タッパーに作り置きを沢山つくって毎日
過ごしているが、冷蔵庫を開けてタッパーを
両手からそっと離すその刹那、私は心から
愛情を詰め込んでいる気持ちになる。

それを食べてくれる人がいて、
美味しいって言ってくれる人がいるのが
どれだけ幸せか、とってもよく分かる。
本当に良い事なんだと思う。
食卓に並べられた沢山の愛は、
貰ってくれる人がいなかったら虚しいだけだ。

一人で食べる時、大事に大事に食べるのは
虚しくならないためだ。



〜間〜



やんぬるかな、人生。
ご飯を作るだけで優しくなったり、
事故現場を見るだけで恐ろしくなったり、
やるせないから楽しくなったり。


胸いっぱいの小花がらんらんと咲き誇っている。
来る気配のない冬のことを、夏の気温と共に
じっくり見つめると、スーパーへの道だって
例え死ぬとしても、尊いもののような気すらする。


ああ、人の生きること生きること。
街明かりや、サイレンや、特売品や、ビニール
そこかしこにある人生たるや。

私も必ずそういったもののひとつとして
生き抜いて生き抜いて、抜ききって、死にたい。